日本の医療マンガ50年史
医療マンガレビュー

ブラックジャックによろしく

「医者って一体なんなんだ……?」という問いの答えを求め、もがき続ける研修医の物語

ブラックジャックによろしく
キーワード
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作者
佐藤秀峰
作品
『ブラックジャックによろしく』
初出
『モーニング』(講談社、2002年10号-2006年8号)
単行本
『ブラックジャックによろしく』(講談社、モーニングKC、全13巻、2002-2006年)

※「初出」は単行本のクレジットに基づいています。

作品概要

 斉藤栄二郎は名門永禄大学医学部を卒業したばかりの研修医。医師になるには、医学部で6年間学び、医師国家試験に合格して医師免許も取得した上で、大学病院等で2年間の実地研修を受けなければならない。斉藤は母校・永禄大学の付属病院で研修に臨む。
 研修医の1日当たりの平均労働時間は16時間。月給は3万8千円。当然ながらそれでは生活していけないので、別の病院で当直のアルバイトをする者も少なくない。斉藤もまた、ある病院で当直のアルバイトを始める。
 ある晩、斉藤がひとりで当直していると、交通事故の重傷患者が担ぎ込まれる。斉藤は患者の怪我のあまりのひどさにうろたえ、手術を放棄してしまう。結局、駆けつけた院長が手術を行い、患者は一命をとりとめる。
 「なぜオペしなかった……?」「ほっといても死ぬ……」「どうせ死ぬなら腹を開けろ……」と院長に詰め寄られた斉藤は、病院が金儲けのために、医療体制が整っていないにも関わらず交通事故の急患を受け入れ続けていることを非難する。しかし、「人の命を救うんだ……」「金をふんだくって何が悪い?」と喝破する院長に言い返すことができない。医療を金儲けの道具にしているとはいえ、院長が人命を救い続けていることもまた事実だった。斉藤は思わず「医者って一体なんなんだ……?」とつぶやく。
 3カ月の基礎研修を終えると、斉藤は大学病院のさまざまな科で指導医につき、本格的な研修を受けていくことになる。外科、内科、新生児集中治療室、小児科、精神科……。さまざまなしがらみでがんじがらめになった大学病院の中で、医療従事者や患者、患者の家族と向き合いながら、斉藤は「医者って一体なんなんだ……?」という問いの答えを求めてもがき続ける。

「医療マンガ」としての観点

 本作『ブラックジャックによろしく』は、研修医という存在を通して、日本の医療が抱えるさまざまな問題を描いた野心的な作品。連載中にはメディア化や連載媒体の移籍(当初『モーニング』に連載されたが、単行本第13巻より後は『新ブラックジャックによろしく』として『週刊ビッグコミックスピリッツ』に連載された)、連載終了後には無料配信や作者自身によるあらゆる二次利用の許諾などでも話題を呼んだ。ゼロ年代を代表する医療マンガであるのはもちろん、日本の医療マンガ全体の中でも最も重要な作品のひとつと言っていいだろう。
 ひとりで当直している主人公の斉藤のもとに交通事故の重傷患者が担ぎ込まれるという冒頭は、先行する研修医マンガ『研修医古谷健一』のそれに酷似している。ところが、古谷健一が悪戦苦闘しながらも最初の試練を乗り越え、充足感と自信を得るのに対し、斉藤は研修医の手に余る医療現場の圧倒的な現実を前に手術を投げ出し、病院の隅でただ震える。
 同じ研修医をテーマにした作品ではあるが、ゼロ年代初頭に始まった『ブラックジャックによろしく』には、90年代初頭に出版された『研修医古谷健一』の楽観的な空気がまるで感じられない。『ブラックジャックによろしく』の連載開始から遡ること数年、現実の世界では1998年に、関西医科大学の附属病院で研修医が過労死する事件が起き、世間の注目を集めていた。その結果、新臨床研修医制度が施行され、研修医の労働条件が改善されたのが2004年のこと。それからというもの、作中で斉藤がしているような研修医による診療のアルバイトも原則禁止となった。
 もっとも、本作はそうした旧研修医制度下の研修医の闇に焦点を当てただけの作品ではない。医療の現場で「医者って一体なんなんだ……?」という問いを突きつけられた斉藤は、研修期間の2年間、つまり『ブラックジャックによろしく』全13巻と続編の『新ブラックジャックによろしく』全9巻にわたってずっと、まるで憑りつかれたようにこの問いを反芻し続ける。
 斉藤には医師になりたかった理由も目指すべき理想の医師像もない。自分に何もないと知ったとき、彼はあらゆるしがらみを不問に付し、自分が携わる医療という行為についてゼロから徹底的に考え始める。大学病院という組織の論理などお構いなく、同僚や自分の恋人、さらには患者やその家族の迷惑を顧みず、彼は直感の赴くままに、目の前にある命を救うべく、がむしゃらに突き進む。善悪の彼岸に立ち、治療費や患者の都合、家族の世間体、社会通念といったものまで無視する姿は、タイトルで引き合いに出されたブラック・ジャックを連想させなくもない。
 もっとも、まだ研修医でしかない斉藤に確固とした信念があるわけではない。ジタバタとみっともなくもがき続ける彼の姿は、どちらかと言えば聞き分けのない子供のようで、海千山千の大人がたむろする大学病院の中で、時に異様ですらある。
 結局のところ、患者を救いたいという彼の思いは、彼自身のエゴでしかないのではないかという逡巡が、作中に何度も現れる。はたして「エゴの行き着く先に希望はあるのか」、そのエゴが「誰かを幸せにすることができるのか」(『新ブラックジャックによろしく』第6巻)。それはもちろん、「医者って一体なんなんだ……?」という問いと無関係ではない。
 医療とは結局は人間の営みに過ぎず、だからこそ尊くも恐ろしくもあることを鬼気迫る筆致で描いた作品である。

※主人公・斉藤栄二郎の最後の研修先泌尿器科での騒動を描いた続編に『新ブラックジャックによろしく』(小学館、全9巻、2007-2010年)がある。

【執筆者プロフィール】

原 正人(はら まさと)
1974年静岡県生まれ。フランス語圏のマンガ“バンド・デシネ”を精力的に翻訳紹介する翻訳家。フレデリック・ペータース『青い薬』(青土社)、ダヴィッド・プリュドム『レベティコ―雑草の歌』(サウザンブックス社)など訳書多数。監修に『はじめての人のためのバンド・デシネ徹底ガイド』(玄光社)がある。