落合隆志さん
医療系出版経営者
日本グラフィック・メディスン協会代表理事
- 日本グラフィック・メディスン協会では、現在、「日本の医療マンガ50年史」というプロジェクトが進行中です。これはどのようなプロジェクトなのでしょう?
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現在、日本グラフィック・メディスン協会では『日本の医療マンガ50年史』を編纂しています。
『ブラック・ジャック』以前の手塚治虫作品に『きりひと讃歌』があります。日本で初めて医療問題を取り扱ったといわれるこの作品が発表されたのが1970年。伝染病をひとつのテーマにしている作品ですが、奇しくも新型コロナウイルスが猛威を奮う2020年に「医療マンガ生誕50周年」を迎えることになったわけです。
しかし、この50年の中で「医療マンガ」とは何か?という定義づけはこれまで明確にされてきませんでした。
「医療マンガ」とは何か?という問いに対しては、協会のHPで医療マンガへの招待という形でまとめていますので、ぜひ読んでみてください。日本で医療や健康をテーマとするマンガ作品が数多く出版される背景には、我が国の国民皆保険制度と豊潤なマンガ文化があると思います。
グラフィック・メディスンは海外マンガの作品だけに適応されるものではありません。グラフィック・メディスンが注目するのは「標準化が進む医療」と「病気ではなく患者を診ること」の両立です。医療マンガの登場人物たちの物語には、現実の人間と同じようにそれぞれの思いや経験の多義性があります。
医療を巡る円滑なコミュニケーションを支援するためにわが国の豊潤なマンガ文化を有効に活用していくことに、『日本の医療マンガ50年史』が寄与できればと考えています。 - さいかすでは以前にも「患者脳トレーニング」という、医療マンガを用いた試みを行っていたようですね。それはどのようなものだったのでしょう?
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私がグラフィック・メディスンと出会う前に、がん患者やその家族しか持てない(持たない)視点を知るために、何かいい訓練方法はないかと模索して出てきた企画です。
『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰)のがんエピソードには、多くのテーマが含まれています。
病名を患者に告げる行為である“告知”、治る見込みのないがん患者に対する”緩和ケア”、”がん終末期”の患者と家族の迎え方、これらのエピソードに対し、実際のがん患者はどういった感想をもつのか、患者だからこそ感じる細やかな視点や疑問点を知るために、共通のマンガ作品を読みあい、感想をきくという試みでした。
すべての記事は、株式会社さいかすのHPでご覧になれます。
当事者感覚の多様性はわずかな語彙の差にも現れます。
私が「がん経験者」という言葉を使ったときに、がんサバイバーのある方が「がん経験者」という表現はおかしい、「がん体験者」であると言ったのです。
経験とは経験する・しないが選べるものだが、体験は否応なくするものだ。がんサバイバーにとって、がんは「経験」なんて軽いものではなく、否応なくした「体験」なのだと。マンガを読み解く中で、こうした小さな表現のひとつひとつに当事者感覚の多様性を感じることができ、相互に理解を深めることができました。
これは十分にグラフィック・メディスン的な試みだったと思います。 - 好きな医療マンガを教えてください。その理由は?
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立原あゆみの『本気(マジ)』『JINGI 仁義』等の一連のヤクザマンガですね。協会内でも私以外は医療マンガ認定しないと思いますが(笑)。
作者の立原あゆみは筋金入りのマルクス主義者で、徹底的な弱者目線で、時事的な社会問題を物語に取り込むのが本当に巧みな作家です。孤児、段ボールハウスのホームレス、派遣切りされた労働者、不法就労外国人、セックスワーカー等、あらゆる社会的弱者が登場します。極私的な見方ですが、彼の描くヤクザマンガは、社会の枠組みから外れた極道(アウトロー)が、マルクス主義者が現実世界で成しえなかった革命を果たそうとするファンタジーだと思っています。国民皆保険という社会保障からこぼれ落ちる人々を描くことは立原作品内の大きなテーマであり、医療の場面が非常に頻繁に登場するのです。
例えば、『本気(マジ)』では主人公の想い人である少女が当時は不治の病であった白血病であり、作品の中で実際の骨髄バンクのドナー登録を促すエピソードが繰り返し描かれます。主人公本気(マジ)は刃傷沙汰で生死の境を彷徨う度に極道医者の天才的なメスによって何度も生還するのですが、最終的には自身も白血病となり、抗争の死の間際にドナーが見つかります。
『JINGI 仁義』でも傾向は同様で、シリーズ続編となる『JINGIS 仁義‘S』の中で、主人公の相棒が医師でヤクザ、主人公の恋人も医師であるという状況が描かれます。
これを「医療マンガ」だと思って読むと、別の見方ができますよ。
- 出版活動とは別に、さいかすでは西荻窪にあるスペースを準備しているそうですね。そのスペースをどのように活用していく予定なのでしょう?
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スペースの名称は「いのちの付箋」といいます。
患者さんのために本当に役に立つ本をセレクトするBOOKスペースとして計画しています。コロナ禍で計画の変更を余儀なくされていますが、誰でも、書籍に直に触れ、読み、会話し、思いを残せる空間です。
そこにある本は、貸し出しも持ち帰りもできません。しかし、来場者は『いのちの付箋』と呼ぶ付箋を使うことができ、自分の読んだ本の好きなページに、自分のメッセージを添えて残すことができるのです。
『いのちの付箋』にある本は、多くの人の思いが残る世界で1冊の書籍になっていくというコンセプトです。
一部に、日本グラフィック・メディスン協会とのコラボレーションによる「医療マンガ専門スペース」を設置する予定です。
また、さまざまな読書会や、出版イベントを開催できる設備も整えています。
グラフィック・メディスン関連のイベントも、どんどん開催していきたいですね。 - 落合さんが考える日本グラフィック・メディスン協会の今後の展望をお教えください。どのような活動をしていきたいですか?
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医師、文学者、社会学者、マンガ家、製薬企業勤務、グラフィックレコーダー、医療系編集者、図書館司書、患者……、現在グラフィック・メディスン協会に集まってきているメンバーの興味の対象は多岐に渡っています。
私の仕事は、それぞれの皆さんが、自身の専門外のことに楽しく興味を持って、グラフィック・メディスンというキーワードでつながる世界を広めていく基盤づくりだと思っています。
哲学・文学系アプローチと、医療・臨床系アプローチ、制作・表現のアプローチの3つのアプローチが考えられますが、個人的には、まず、会員の皆様へのインタビューを企画するなどして、皆さんの興味の対象を深堀していきたいなと思っています。