INTERVIEW
GMな人びと

ミカヅキユミさん

イラストレーター

聞き手:中垣恒太郎
構成:落合隆志

ミカヅキユミさん(前編)

 ミカヅキユミさんは新潟在住のマンガ家で、主にweb媒体を通して耳が聴こえない日常をコミックエッセイで発信されています。
 ミカヅキさんの『聴こえないわたし 母になる』という作品は、生まれつき両耳が聴こえないミカヅキさんの日常の記録であり、コミュニケーションをめぐる物語であり、育児にまつわる自伝マンガ/エッセイマンガです。レタスクラブWEB版での連載終了後、現在、レタスクラブ本誌に転載連載されています。
 生まれた時から耳が聴こえない状況は、治療を前提とする「医療の領域」や福祉的な「障害の領域」では的確に捉えきれない面があります。
 社会・文化を映し出すマンガという表現手段において、必ずしも「GM作品=医療マンガ」ではありません。
 この作品は、同じ境遇にある読者の支えになるだけではなく、当事者の日常のエピソードを通して、耳が聴こえない方が実感されている生活の不便な側面やその時々の気持ちが描かれていることから、皆にとって暮らしやすい社会を作る上で多くのヒントを提示してくれます。
 今回はミカヅキさんに、ご自身がマンガを描く思い、マンガの制作・配信を通して感じられたご自身の気づき、そして社会や文化との関わりについてお話を伺いました。

〇『聴こえないわたし 母になる』
https://www.lettuceclub.net/news/serial/11641/
〇ミカヅキユミさんのブログ『背中をポンポン』
https://senaka-ponpon.blog.jp/

子どもの頃にお好きだった、影響を受けたマンガ作品はありますか?

 数えきれないほどありまして、とっても迷ったのですが…。
 3つに絞るとしたら『聖闘士星矢』(車田正美 集英社 1985)、『ときめきトゥナイト』(池野恋 集英社 1982)、『らんま1/2』(高橋留美子 小学館 1987)です。
 子供の頃はりぼん、コロコロコミック、月間少年ジャンプを読んでいたので、その時代の連載作品には影響を受けていると思います。名作アニメ絵本シリーズ、学習まんがの歴史シリーズや伝記シリーズもよく読んでいました。
また、アニメは『トムとジェリー』が大好きでした。台詞がわからなくても、細かい動きや表情からストーリーがわかるところがいいなと思っていたのですが、もともと台詞がないことを知ったのは(台詞ありのパターンもあるそうですね!)大人になってからでした。
 驚きと感動、そして字幕がなかったあの時代に、みんなと同じ条件で見られる数少ない番組だったのだと、幾重の意味で嬉しかったのを覚えています。

マンガは以前から描かれていたのですか?

 小さいころから絵を描くことが好きでしたが、マンガを描くきっかけとなったのは長男の出産を機に描き始めた育児絵日記です。
 最初はただの自己満足な育児絵日記であり、息抜きの時間であり、成長の記録であり、絵の練習でもありました。
 次第に「聴こえないわたしの生き方」を綴りたいなと思うようになり、方向性を少し変えて「わたし自身のこと」をメインにマンガを描くようになりました。

『聴こえないわたし 母になる』について伺っていきたいと思います。ミカヅキさんはウーマンエキサイトの媒体に、同じテーマで『「耳が聴こえないこと」について息子に聴かれた話』という作品があります。ウーマンエキサイト版では動物の姿で描かれていましたが、「レタスクラブ」版では人間の姿で描かれていますが、この違いにはどのような意図や狙いがあったのでしょうか?

 ウーマンエキサイトさんでは、もともと私がブログで描いていた作品を転載して載せていただいたものなんです。
 レタスクラブさんは同じエピソードが基になってはいるのですが、担当さんと一緒にネームやキャラクターデザインを見直した、という背景があります。その流れで、人間の姿で進めていくことになりました。

「聴こえないわたし 母になる」には、同じ境遇にある読者の支えになるだけではなく、日常のエピソードを通して、耳が聴こえない方が実感されている生活の不便な側面や、その時々の気持ちが描かれています。皆にとって暮らしやすい社会を作る上で多くのヒントを提示してくださっていると思います。

 「聴こえないわたし 母になる」を人間のキャラクターで描いてみて感じたことですが、あらゆる感情のこもった表情を表現するにも、手話をしているシーンを描くときに、手の繊細な表現、体の傾き具合、目や口の動きなどをデフォルメするにも、動物のキャラクターよりも人間の姿の方が豊かに描けますね。

手話のシーンも登場します。

 手をリアルに描きすぎるとマンガのタッチと合わなくなってしまうので、これも本当に難しいところです。
 実は、マンガでの表現を考えたときに、どんな方に読まれるかわからないので、自分の知っている手話・使っている手話が本当に正しいのかどうか、私だけの感覚で表現してよいのか、不安になってしまうんです。
 ろうの友人数人を思い浮かべたり、わからないとき・不安なときは聞いて確認したり、様々なろう者の動画を見ながら描いています。
 手話辞典も確認程度では使用しますが、ろう者の生きた手話を目で見て、表現のイメージを固める作業が好きです。

エッセイマンガではプライベートなお話をマンガにします。ご家族や身近な人を描く上で配慮されていることはありますか?

 家族を登場させる場合は、本人が嫌がることは描かないと決めています。公開する前にチェックしてもらって、家族の許可を得てからアップしています。
 また、個人が特定されないように所々フィクションを入れてボカしたり、キャラを設定するときに、自分の知っている身近な数人の性格を融合させてひとりの人物として描くこともあります。

育児や家庭のあり方もさまざまであること、そして、コミュニケーションの取り方も人それぞれであることを本作はあらためて実感させてくれます。『聴こえないわたし 母になる』はどのような読者層に届いてほしいという思いがありますか?

 聴こえない人にも聴こえる人にも、聴こえない子どもを育てる聴こえる親にも、コーダにもソーダにも、そのほかの様々な立場の人たちにも届いてほしいです。
 描くテーマや表現については、自分なりに読み手の存在を意識して描いているつもりですが「どんな方が読むかわからない」「これを発信することで誰かを傷つけてしまうかもしれない」ということは、常に頭の中にあります。
 いろいろなご意見をいただきますが、読者さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
 私も人としてもっともっと成長して、伝え方や描き方を模索して、より良い作品を作っていきたいです。

コーダ:CODA (Child of Deaf Adult) 聴覚障害者を親に持つ聴こえる子ども
ソーダ:SODA (Siblings Of Deaf Adults/Children) 聴覚障害者を兄弟姉妹にもつ人

『かげひなたに咲く花』という自伝的作品も描かれています。
グラフィック・メディスン作品の多くはグラフィック・メモワール(回想録)であり、マンガの創作表現を通して、作家自身の半生、両親や周囲の人たちとの関係性をふりかえる作品が多いです。

 自分の生い立ちを振り返ってみようかなと、深く考えずに描きはじめた作品なので、読み返してみると、綺麗に描きすぎているところがありますね。
 母の視点で描くということは、聴者の視点を想像して描いてしまうことになるんだなと。ここはちょっと違うんじゃないか、直したいなぁと思ったりもしましたが、結局そのままにしています。
 生まれた当時の私は赤ちゃんで、自分が何を思っていたのか覚えていませんし、私なりに考えて母の視点で描いてみようと思ったのだから仕方ないよね…と(苦笑)
 いつかブラッシュアップして、描き直してみたい気持ちはあります。

 小学校時代をふりかえると、不便なところも所々ありましたが、担任の先生をはじめ周囲の配慮・理解があり、それなりに居心地のよい環境でした。
 今思えば、担任の先生の考え方(私との相性を含む)、学校全体の考え方、周囲の大人たちの考え方、私の性格、友人の性格…など、あらゆる条件がちょうどいい具合に絡み合って、偶然手に入った環境だったのだと思います。
 中学・高校で初めて「社会(聴者優位の世界)で生きることの厳しさ」を知りました。「よい環境」とはどんな状況を指すのか。多少なりとも「環境の質がわかる」ことは、私にとって強みでした。社会との壁を感じ、挫折することがあっても、子どもなりに「それは自分だけに原因があるのではない」と、心のどこかで信じて生きていくことができたからです。

後編へ続く

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