誰にでも訪れる「老い」の現実を、やさしくあたたかな眼差しで描く
- キーワード
- アルツハイマー認知症
- 作者
- 著者:パコ・ロカ
訳者:小野耕世、高木菜々 - 作品
- 『皺』
- 単行本
- 『皺』(小学館集英社プロダクション、全1巻、2011年)
※「初出」は単行本のクレジットに基づいています。
作品概要
72歳の元銀行員エミリオは、本人に自覚はないもののアルツハイマーの症状が出始めていた。実の子の顔もわからなくなってしまうエミリオに限界を感じた息子夫婦は、彼を老人ホームに入居させる。そこには、人の世話を焼いてはお金をだまし取るミゲルや、アルツハイマーの夫を献身的に世話するドローレス、ポジティブに年寄り生活を楽しもうとするアントニアなど、さまざまな老人たちがいた。
作者はこの物語を描くにあたって、親戚や友人に話を聞いたり実際に老人ホームを訪れたりして、老いをまつわるエピソードを集めたという。誰にでも訪れる「老い」をあたたかな眼差しで描き、2012年度の文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞を獲得、アニメーション映画化もされた、スペイン発の傑作マンガ。
「医療マンガ」としての観点
壮年の銀行員がある夫婦の融資相談に乗っている。途中で男性が苦情を言う。ここは銀行じゃない。いいかげんに晩飯を食べてくれ、と。銀行員が愕然とした表情を浮かべると、次のコマで一気に年をとって老人の姿に戻る。
冒頭の数ページだけでも、この作品が表現しようとする世界観にぐっと心を掴まれる。フラッシュバックする記憶は、過去のものでありながら、そのまま登場する老人たちの「現在」だ。老人たちに去来する思いを、その目で見ている世界を、作者は無駄な感情を排して淡々とありのままに、時にユーモアを交えて映し出す。
いずれは誰もが老いる。しかしその時のことを考えるのはとても恐ろしい。記憶が失われたり、当たり前のことができなくなったり、自分をコントロールできなくなったりと、負のイメージがつきまとう。
そんな不安を具現化するかのように、この作品にはさまざまな老人たちが登場する。いつも頭の中でイスタンブール行きのオリエント急行に乗っているロサリオのようにほっこりさせてくれる人々がいる一方、ティーバッグやケチャップなどを集めては唯一来てくれる孫にあげるアントニアのように、ちょっと困った人々も出てくる。ちょっと困った、では済まされない事件も起こる。
けれど、さまざまな老いの姿を描くパコ・ロカの筆致は、どこまでもやさしく、あたたかい。
アルツハイマーの夫の耳元で妻のドローレスが何かを囁くシーンがある。人の判別もできないはずの夫は、しかしほんのりと表情を緩める。それは二人だけが知る過去のささやかな秘密の一言で、その言葉を囁くドローレスの幸せそうな微笑みに、救われる思いがする。