日本の医療マンガ50年史
医療マンガレビュー

きりひと讃歌

病をめぐる語りの枠組みをつくり、隠喩としての病を描いた最初の医療マンガ

きりひと讃歌
キーワード
医療問題病による差別風土病
作者
手塚治虫
作品
『きりひと讃歌』
初出
『ビッグコミック』(小学館、1970年-1971年)
単行本
『きりひと讃歌』(虫プロ商事、COMコミックス増刊、全2巻、1972年)

※「初出」は単行本のクレジットに基づいています。

作品概要

 人間を犬のような姿へと変える謎の奇病モンモウ病をめぐる物語。同じく手塚治虫による『ブラック・ジャック』の約3年前に連載が始まった作品であるが、青年誌に掲載されたこともあってか、同時代の社会体制・医療制度に対する手塚の鋭い批判意識がうかがえるものになっている。大阪のM大学医学部付属病院に勤める医師小山内桐人は、医長の竜ヶ浦の命令によってモンモウ病の原因を解明するために徳島の山あいにある犬神沢村に向かう。そこで彼は、この病の原因は竜ヶ浦の考えるウィルスではなく、この土地の水に含まれる鉱物成分によるものと突き止めるが、自らもモンモウ病を発症する。犬のような姿になった自身に苦しみ、またその姿のために見世物として売られ台湾から中東をさまよう羽目になりながらも、小山内は医師として行く先々で人々の命を救おうとする。一方、小山内の友人で同僚の卜部も、アフリカで発生しているモンモウ病と同じ症状を引き起こす病を調査し、この病を地下水による風土病であると考えるようになる。卜部は、修道女のヘレンを患者として日本に連れ帰るが、竜ヶ浦はウィルスによる伝染病説をゆずらず、医学総会での発表でヘレンを衆目の前に晒す。風土病であるという確信を持ちながらも、愛するヘレンを救うことができないという苦悩から、卜部は次第に精神を蝕まれ、最終的には自殺してしまう。このように二人の若い医師を苦境に追いやった竜ヶ浦の思惑は、この奇病を解明した業績によって日本医師会会長となることだった。しかし、会長に当選したのも束の間、日本に戻ってきた小山内の暴露や卜部の残したモンモウ病のレポートによって、竜ヶ浦の権威は失墜する。さらに彼自身もモンモウ病を発症し、失意の中、ウィルス説を証明するために自身の遺体を解剖するようにと遺言して死んでいく。卜部を失ったヘレンは、ある鉱山町に蔓延していた病の看護活動に力を注ぐ。そしてまた小山内も、同じような病に苦しむ人々と苦しみを共有し、医師として自分を必要とする患者たちのもとに戻ることを決意する。

「医療マンガ」としての観点

 『きりひと讃歌』はマンガという媒体で初めて医療の世界を扱った、最初の医療マンガである。そこでは、医療への情熱を持った医師による難病の解明、医学界の権力闘争、病による差別の問題など、今日医療マンガが扱う問題がほぼ網羅されており、手塚治虫が(天才医師という類型を生み出した)『ブラック・ジャック』と合わせて、マンガにおける医療にまつわる語りの枠組みをすでにほぼ完成させていることに、ある種の畏敬の念を抱かざるを得ない。『ブラック・ジャック』と比べると「社会派」、すなわちリアリスティックとされるこのマンガであるが、人間が獣の姿になるというモチーフや、その謎を科学の徒である医師が追うという筋立ては、『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』といった19世紀ゴシック小説に極めてよく似ていることを指摘しておきたい。実際このマンガでは、モンモウ病に罹患した精神状態が、超自然との交合・対面のように図像化される。すなわち『きりひと讃歌』では、ゴシック小説における超自然的怪奇がモンモウ病として表象されており、それを解明することを阻む医学界の現実こそが最も恐るべき怪物なのだ。
 このように『きりひと讃歌』は、病という隠喩によって同時代の社会の病理をあぶり出すことに成功しているが、比喩を捨てリアルに限りなく近づく瞬間が何度かある。それは例えば、モンモウ病の修道女ヘレンが、炭鉱町でハレ病と呼ばれる風土病にかかった人々を救おうとする場面である。ここでは、病気に苦しむ患者たちの顔が手塚の画風としては珍しいほどリアリスティックに描写される。同時に、病が生む差別の問題、水俣病との関連も示唆されており、手塚の公害病に対する強い懸念がうかがえる作画になっている。このようなリアルへの接近が、おそらくその後の医療マンガの方向性を決定づけている。
 現在、医療マンガの多くは、病を隠喩としてえがくというよりはむしろ、医療の現場をリアリスティックかつ社会派的に描くということに腐心しているようにみえる。これは、社会派小説『白い巨塔』をなぞって、手塚がおこなった医療批判を、その後のマンガがあまりに安易に引き受けたことから起きている現象にも思われる。しかし『きりひと讃歌』が切り開いたのは、病につきまとう問題を語るためのより大きな場であることを主張したい。小山内の放浪、卜部の苦悩、ヘレンの救済を通してわれわれは、隠喩としての病が社会に行使する恐るべき力を体感することができるのだ。

【執筆者プロフィール】

松田 幸子(まつだ よしこ)
高崎健康福祉大学人間発達学部子ども教育学科准教授。初期近代イギリス演劇専攻。日本シェイクスピア協会、日本マンガ学会会員。 シェイクスピア作品やその他イギリス文学におけるキャノンの、現代日本のポップカルチャーにおけるアダプテーションについてマンガを題材に考察しています。

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