研修医たちの〈ありふれた〉日常と思い
- キーワード
- 外科大学病院女性医師研修医
- 作者
- 森本梢子
- 作品
- 『研修医なな子』
- 初出
- 『オフィスユー』(集英社、1995年)、『YOU』(集英社、1995-1999年)
- 単行本
- 『研修医なな子』(集英社、YOU comics、全7巻、1995-2000年)、その他YOU漫画文庫(全4巻)あり
作品概要
K大医学部附属病院で「修行」することになった研修医の杉坂なな子が、同じく研修医の仲間たちとともに、指導医や教授をはじめとする先輩医師たち、看護師たちに助けられながら、慣れない仕事に奮闘する様子を描いた一話完結型のコメディ。『ごくせん』で知られる森本梢子が、働く女性を主なターゲットとした『オフィスユー』(その後『YOU』に移動)に連載した作品であり、女性向けの医療マンガとしては女性医師(しかも研修医)を扱っている最初期(おそらくは初めて)の例である。なな子は研修医として初めての手術や当直を経験する中で、失敗を繰り返しながら、なんとか医師としてのスキルとその生態を身につけていく。物語はなな子が2年の研修期間を終え、10年後、自立した外科医として研修医を指導する立場になっていることがわかる場面で幕を閉じる。このように女性医師の成長を描いたこの作品であるが、それに加えて、指導医の緒方や、研修医仲間の荒巻など、森本梢子に特有の飄々とした魅力の男性キャラクターとのかけ合いによって、コミカルな研修医の日常にほんのひとさじの恋愛のスパイスが加わっていることも、少女マンガがいかに医療という分野を開拓してきたのかという問題を考える上で、指摘しておくべき要素であるだろう。
「医療マンガ」としての観点
『研修医なな子』は医師たちの〈ありふれた〉日常を描いた医療マンガである。このマンガに登場する医師や彼らの周囲で起きる事件は、もちろん読者からすれば一風変わったものであるが、物語はこれを医療現場においては一般的なことだと位置付ける。手術中に研修医が摘出した胆のうを落とすことも、執刀医たちがくだらない話をすることも、このマンガが教える医療の世界においてはよくあることなのだ。外科医の「本分」である手術に焦点を当てた「CASE 21切ってなんぼの世界!?」で、なな子は乳がんの手術に第3助手として加わる。この回では、患者への精神的ケアの必要性、医師たちによる術前検討会の様子など、手術に際して医師たちが関わる諸々のプロセスが紹介されるが、その語り口はきわめてカジュアルなものだ。第1助手の医師が皮膚の剥離作業を行いながら、「皮はぎっつったらボクフグが大好きなんだよねーん」「そこ止血して」「時代劇なんかでフグの毒に当たると土の中に埋めるのはなんか意味あるんですかねえ」「コッヘル」と呟き続けるコマに続けて、次のようなナレーションが挿入される。「ところでこの緊迫した手術室の中で案外医者は非常に低レベルなバカ話をやります」、「当然主神経は手元に集中しておるのでその内容はほんっっっとにバカだったりする」。このように、『研修医なな子』は、少女マンガというジャンルに特有ともいえる、ナレーションによる読者への語りかけを多用することによって、社会の抱える問題をドラマティックに暴こうとする男性向け医療マンガとはまったく異なるアプローチで、医療現場の〈リアル〉をとらえようとしている。一見変わった医師たちの行動ではあるが、このマンガはそれらが医師の世界においてはごく〈ありふれた〉ことなのだと気の抜けた言葉遣いで語り、読者の共感を呼び起こすのだ。
この平凡さは、キャラクターたちにも通底している。主人公のなな子は、少女マンガの主人公らしく、ドジでありながら、失敗してもめげない明るさを持った人物として描かれるが、それ以上の特徴は語られない。彼女には女医という語からステレオタイプ的に連想される、特別な感受性も天才的な頭脳も突出した器用さもない。海外青年協力隊の医療チームを目指す女性医師の伊万里に影響を受けたなな子に、レジデントの三田は「俺が思うに君は臨床向きだよ」と声を掛ける。なな子は「えーでも」「それじゃごくフツーじゃないですか」と返すが、この「フツー」さこそ、少女マンガというジャンルにおいて、医療マンガを成功せしめるひとつの要素ではないだろうか。彼女は〈ありふれた〉医師なのだ。なな子は、自分が医師を目指すようになったのは、小学生の時ずっと生きもの係だったからであると語る。いじめっ子が投げたガマガエルを投げ返してしまったため、彼女は他の女子が怖がることを引き受けるようになってしまった。あるとき猫が車にはねられていた時、なな子は自分も恐ろしかったものの、猫を体操着に包んで動物病院に連れて行った。その時のことを彼女は「みんな私が動くことを期待している」「それが痛いほどわかったんだ」と回想する。この話を聞いた他の医師たちも、そういえば家でゴキブリが出た時は、自分が退治役を任されてしまうことにふと気づくのである。この作品には、このような医師たちのきわめて他愛ない内面への接近がある。そしてそれは、彼ら一見変わった医師たちを、われわれへと引き寄せてくれるものなのだ。『研修医なな子』は少女マンガという共感の共同体において、それまで特別な存在であった医師たちを〈ありふれた〉日常に接続したマンガであるといえる。