日本の医療マンガ50年史
医療マンガレビュー

動物のお医者さん

獣医学を学ぶ理系学生たちと動物の理性に満ちた飄々とした日常

動物のお医者さん
キーワード
動物診療獣医学部獣医師
作者
佐々木倫子
作品
『動物のお医者さん』
初出
『花とゆめ』(白泉社、1988 -1993)
単行本
『動物のお医者さん』
(白泉社、花とゆめコミックス、全12巻、1988 -1993)

※「初出」は単行本のクレジットに基づいています。

作品概要

 北海道のH大学獣医学部で学ぶ大学生と、彼を取り巻く個性豊かな人々、そして何より様々な動物たちとの日常を描いた一話完結型のコメディ。作者である佐々木倫子は、1995年から始まる『おたんこナース』では、病院を舞台とした看護婦ものを執筆している。主人公のハムテルは、アフリカ風の扮装をした大学教授に「キミは将来〜〜獣医師になる‼️」と予言され、シベリアン・ハスキーの子犬を押し付けられる。「チョビ」と名付けられたその犬の面倒を自分自身でみるために、獣医師を目指すことになったハムテルは、ネズミが大嫌いで間の抜けたところのある友人の二階堂、横暴な野生児のような漆原教授、マイペースな院生の菱沼さん、自由で押しの強い祖母らアクの強い人々と、各話ごとに登場する動物たちが起こす小さな事件に巻き込まれながら大学生活を過ごしていく。チョビだけでなく、ハムテルの家で飼われている「西根家で最強の生物」である雄鶏のヒヨちゃんや、姐さんネコのミケ、かわいいだけのスナネズミたち、あるいは、H大で飼育されている馬やブタ、モモンガやカラスまで、多種多様な動物とかかわる中で、ハムテルや二階堂は獣医学生として少しずつ成長し、ふたりで獣医師として開業する目処が立つところで物語は終わる。魔夜峰央や川原泉、日渡早紀など、少女マンガの枠にはおさまらない作家たちを抱えていた1980年代後半の『花とゆめ』の扱ったトピックの多様性を象徴するかのごとく、「理系大学生もの」というジャンルを切り開いた作品でもある。

「医療マンガ」としての観点

 『動物のお医者さん』では、主人公ハムテルの淡々としたまなざしも手伝ってか、医療マンガにつきものともいえる、お涙頂戴のエピソードはまったくといっていいほど語られない。作者自身が最終巻の「Making of 動物のお医者さん」でも紹介しているように、読者の中には「動物」そして「医者」というキーワードから「愛と感動の物語」を期待する人もいるかもしれないが、そんな人ははやくも第3話で肩透かしを食うだろう。この回では、西根家に来たばかりの子犬のチョビが血便を出す。ハムテルは、H大に連れて行けば、「どの医者にも匙を投げられた重症のチョビが」(ハムテルが獣医になると予言した)漆原教授という「名医の手によって劇的になお」り、元気になったその姿を見て自分が「獣医ってすばらしい」「僕もきっと獣医になろう」と決心するのかもしれないと考えてはみるものの、即座に「なんていうことにはならないだろうけど」と、いわば自己言及的に「泣ける話」から距離を取る。実際、この回の最後で、診療に手間取る漆原教授の様子に「獣医へのあこがれ」を打ち消されたハムテルは「自分でなおしたほうが早いし確実だし実費だけで済むから安上がりだ」と考えて、獣医の道を選ぶのである。このように、このマンガは医療マンガが時に陥りがちな、安っぽいヒューマニズムや天才医師による難病の奇跡的な治療といったステレオタイプを、飄々と乗り越えていく。これは、『おたんこナース』でも披露される、医療を描く際にとりわけ際立つ、佐々木倫子の稀有な才能であるかもしれない。
 それでは、『動物のお医者さん』の医療マンガとしてのおもしろさはどこにあるのか。それは、各話で積み重ねられる細々としたエピソードにあるだろう。このマンガでは、タイトルから連想されるほど、専門的な動物診療の様子が語られるわけではない。それでもこのマンガを「医療マンガ」としたいのは、獣医師、より正確にいうなら獣医学部で学ぶ学生たちのエピソードがもつ独特のリアリティのためである。獣医学部という場にまつわる数限りないエピソードは、新奇さと同時に不思議な親近感をもって読者に共有されるに違いない。獣医学部の試験で「おいしいカレー」の作り方のレポートが提出されること、健康診断の際に院生は自分で血液を採取すること、細菌の培養には愛情と手間がかかること、国試を受ける学生たちの奇行、学会発表する院生の苦労、電話で教授の指示を受けながら帝王切開することになる研修医など、そんな馬鹿なと笑うものの、しかしあり得るかもしれないと思わせる数々の「ネタ」がこのマンガには書き込まれている。作者によれば、これらの「ネタ」は、連載開始時に全国の読者から募ったものであるというが、そのリアリティこそが、獣医学という未知の領域に、われわれがある種の共感を抱く要因となっているのである。確かにこのマンガには、命の大切さを説き医療制度批判を行うような大きなドラマは存在しない。ただ圧倒的なリアリティをもった獣医学を学ぶ学生たちの日常がある。その日常を支えるのは愛情や涙ではなく、医療を志すクセの強い学徒らのどこか達観した理性なのだ。『動物のお医者さん』は、医療の現場が、こういった名も無い無数の学生たちの飄々としたインテリジェンスによって下支えされていることを教えてくれる作品である。

【執筆者プロフィール】

松田 幸子(まつだ よしこ)
高崎健康福祉大学人間発達学部子ども教育学科准教授。初期近代イギリス演劇専攻。日本シェイクスピア協会、日本マンガ学会会員。 シェイクスピア作品やその他イギリス文学におけるキャノンの、現代日本のポップカルチャーにおけるアダプテーションについてマンガを題材に考察しています。

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