小林 翔(大阪大学非常勤講師)
こばやし・しょう 1986 年生まれ。京都精華大学大学院マンガ研究科博士後期課程退学。現在、大阪大学日本語日本文化教育センター非常勤講師および一般社団法人日本グラフィック・メディスン協会理事。専門はアニメーション研究、メディア史。共著に日本グラフィック・メディスン協会編『日本の医療マンガ50 年史』(SCICUS、2021 年)。
日本の医療マンガは2020 年に50 周年を迎えました。手塚治虫による医療マンガの金字塔「ブラック・ジャック」から生まれたスーパードクターというキャラクター像は、奇跡のような手腕であらゆる傷病を癒やす超人として描かれる半面、リアリティの水準において医療行為の不正確さが批判されるという問題を抱えていました。本稿ではブラック・ジャック以降のスーパードクターがいかにしてその問題を乗り超えたのか、また医療マンガにおけるスーパードクター以降の題材の広がりについて考察します。
近年のマンガ研究において、現代的な日本の「マンガ」は1923 年頃、アメリカやイギリスの新聞マンガが輸入・翻訳されたことを契機として成立したというのが通説となっています1)。そこを起源とするならば、日本マンガの歴史は今年100 周年を迎えたことになります。また、筆者も寄稿している日本グラフィック・メディスン協会編『日本の医療マンガ50 年史』では、手塚治虫の「きりひと讃歌」の連載が開始された1970 年を始点として2020年を医療マンガ50 周年と定義しました。
「きりひと讃歌」は1970 年から『ビッグコミック』で連載されたマンガです。人間の身体が犬のように変化してしまう奇病・モンモウ病に侵されてしまう小山内桐人と、モンモウ病患者である修道女ヘレンと出会った小山内の同僚占部という2人の若い医師を中心に物語は展開します。「難病の解明」「病にまつわる差別のまなざし」「医学界の権力闘争」といった、医療を巡る物語の典型的フォーマットが本格的に導入された初めてのマンガであり2)、特に医学界の権力闘争については、1960 年代に大ヒットした山崎豊子の小説『白い巨塔』とその一連の映像作品のテーマとしてもホットな題材でした。同作の舞台である浪速大学のモデルが、手塚が医学を学んだ大阪大学であることは偶然の一致ではありますが興味深いです。
怪物のような見た目に変貌する架空の病というフィクションならではの道具立てを用いつつも、それさえも利用する小山内の上司・竜ヶ浦教授の権力欲こそが怪物として描かれ、しばしば「社会派」という評価を受ける作品です。同時代の社会問題との接続という、今日の医療マンガにおいても健在なアプローチが、ジャンルの始祖的な作品において既に達成されていることは特筆に値します。しかし、手塚はそうしたアプローチ“ ではない” 医療マンガのもう一つのフォーマットも創造しています。「ブラック・ジャック」に始まるスーパードクターものです。
医療をテーマとしたフィクションにおいて、スーパードクターという題材は現在も根強い人気があります。卓越した手術の腕前を持ち、あらゆる怪我や病気をたちどころに治療してしまう超一流の名医。現実においても心臓外科医や脳外科医といった生死に密接に関わる身体の部位を専門とする医師がそう呼ばれることもあります。
医療マンガにおいては、言うまでもなくブラック・ジャックがその始祖であるといえます。本稿では、日本のマンガ史のおよそ半分の期間を彩ってきた医療マンガの歴史をスーパードクターという切り口から振り返ってみます。
マンガとして面白ければよいのか
ブラック・ジャックに投げかけられた問い
「ブラック・ジャック」は「きりひと讃歌」連載終了から2年後の1973 年に『週刊少年チャンピオン』で連載が開始されました。一匹狼の無免許医ブラック・ジャック(以下BJ と表記)が、法外な手術料と引き換えにあらゆる傷病を治療する一話完結型の作品です。「きりひと讃歌」の小山内と対照的に、組織に属さないアウトサイダーとしてのBJ のキャラクター性は、当時の劇画ブームに対する手塚なりの解答とされ、古いマンガ家と見なされて人気が低迷していた手塚の起死回生の作品となりました。
現在まで手塚の後期代表作とされる「ブラック・ジャック」ですが、医学的な見地からは大いに問題をはらんだ作品でした。同作のマスコット的な存在、ピノコの誕生を描いた第12 話「畸形嚢腫」や、大病院を管理するコンピュータを治療(?)する番外編「U-18 は知っていた」に代表されるように、医学の限界を超えた虚構の領域に踏み込んだ治療行為がたびたび登場します。こうした医学的リアリティとSF的なフィクションが同水準で語られることや、マンガ家としての多忙さ故に、医学的知識の更新を怠っていた手塚の知識の不正確さもあり、現実の医療水準や医療倫理との擦り合わせが十分ではなく、特にロボトミーを描いた第153 話「ある監督の記録」は、被害者団体からの抗議を受け雑誌に謝罪文を掲載するに至るなど、連載中は様々な抗議が手塚の下には届いていたといいます。
現実のスーパードクターがあくまで特定の分野の専門家であるように、あらゆる傷病を治療する万能の医者としてのスーパードクターは現実には存在し得ません。それをあえて描くとすれば、前述したような医学的アプローチを超越した手術や治療を施す超人的だが荒唐無稽な存在になることは必定であり、「ブラック・ジャック」はそうした困難さを引き受けた結果、医療行為としてのリアリティよりもフィクションとしてのスーパードクター像の成立を優先したのでした。
困難な傷病を超人性によって克服
しかし、「マンガとして面白ければ医学的リアリティを損なってもよいのか?」というBJ に対して投げかけられた問いは、それ以降のスーパードクター作品が乗り超えるべき課題として立ちはだかることとなります。BJ 以降のスーパードクターはどのようにして医学的リアリティとフィクションの水準を調和させていったのでしょうか。
タイトルにスーパードクターを冠する真船一雄の「スーパードクターK」は1988年から10 年にわたり『週刊少年マガジン』で連載されたマンガです。2023 年、続編となる「K2」が、期間限定ですがネット上で全話無料公開されたことを契機に、熱心なマンガファンによって再評価が進む作品でもあります。主人公のK ことKAZUYA は190cmを超える長身に人間離れした怪力を備える偉丈夫として描かれ、物語の前半は「北斗の拳」などの同時代のバトルマンガに影響を受けたと思われるアクションや暴力描写が目に付く、KAZUYA の肉体的な超人性を強調した作劇がなされていました。医療行為についての描写も、現役医師でマンガ家でもある中原とほるが原案協力として制作に関与することで、超人的なメス捌さばきの腕を持つKAZUYA の施術に医学的リアリティと説得力を与えることに成功しています。
こうした医師や医学博士による「監修」という手続きは、「スーパードクターK」の連載されていた80 年代後半から顕著に見られるようになっていきます。「ブラック・ジャック」においては時として現実を超越するBJ の手術の腕前によって描写されていた医者としての万能性は、KAZUYA においては野獣の肉体と称される肉体の超人性へと置き換える一方で、医療行為にまつわる描写については現実に即した水準に徹底することで、リアリティとフィクションのバランスを調停することに成功しました。
非現実的な傷病を治療するというフィクションならではのスーパードクターの在り方を体現したBJ に対して、現実的には治療が困難な傷病を超人性によって克服するという医学的リアリティに即したスーパードクターとしてKAZUYA は登場しました。それぞれが提示したスーパードクター像は明快であり、マンガの主人公としてもダークヒーロー的アウトサイダー/少年マンガ的なスーパーヒーローというある種の
典型を体現するこの2人のスーパードクターに対して、後続の作品はスーパードクターのキャラクター像を模索することとなります。
フィクションとリアリティの両立
責任を延々と自問し続ける脳外科医
1994 年から連載が始まった浦沢直樹の「MONSTER」もそうした作品の一つです。天才脳外科医Dr. テンマは、ある日瀕ひんし死の状態で搬送されてきた少年ヨハンを手術で救いましたが、病院を舞台とした殺人事件が発生。ヨハンは双子の妹とともに失踪します。10 年後、外科部長となったテンマの前に現れたヨハンは、過去の罪を告白するとともに、テンマの患者を射殺しその罪をなすり付けます。濡ぬ
れ衣ぎぬを着せられ逃亡者となったテンマは、冷酷な殺人鬼として舞い戻ったヨハンを止めるためにヨーロッパを転々とすることとなります。
主人公のテンマは医者ではあるものの、物語の骨子は90 年代に流行した「サイコサスペンス」に位置付けられます。テンマの医師としての活躍は主題ではなく、自分が救った患者が多くの人々を殺す殺人鬼であったことで、自身の責任をテンマは延々と自問し続けることになります。ヨハンは今日でいうところの「サイコパス(」作中では「怪物」と表現される)であり、脳外科医であるテンマにはその病状を治療することができないのは意図した設定でしょう。
「命の平等性」「なぜ人を殺してはいけないのか」といった医療倫理にとどまらない普遍的な倫理を作品が描く中で、テンマはヨハンの凶行を自分が殺すことで止めようと決意し、ヨハンを追いかけながらも苦悩し続けます。従来のスーパードクターが外科的治療によって患者を救ってきた(事実、テンマはヨハンの命を救っている)のに対して、ヨハンのような深い心の闇を湛たたえた精神の病の前では、いかに腕の立つスーパードクターであっても無力であるという、スーパードクターの限界を描いた作品として読み解くことも可能です。
タイムワープで現代医療の常識が神業に
同時期の作品として、村上もとかの「JIN -仁-」も重要な作品です。2000 年から『スーパージャンプ』誌上で10 年にわたって連載され、大沢たかお主演のドラマ版は社会現象にもなった人気作品です。主人公の南方仁は優秀な脳外科医ではありますが、他作品のスーパードクターのような超人性は持ち合わせていない、一般的な意味での名医です。しかし、現代の医師が幕末へとタイムワープしてしまうというSF 設定を導入することで、医療水準の後退した世界に身を置くこととなった南方は結果的にスーパードクターとして振舞うことになります。
コレラの対策やこの作品のハイライトともいえるペニシリンの開発といった南方の業績は、現代医療においては達成済みの常識に過ぎませんが、幕末の医療水準においてはオーバーテクノロジーであり、まさしく神の御業に等しい偉業です。現代の医師としての南方の超人性を強調し過ぎることなく、置かれた環境を大胆なフィクションとして描くことで、リアリティとの両立に成功した力作といえます。
スーパードクターの限界を描いた「MONSTER」と、SF 的な想像力でスーパードクターを描いた「JIN -仁-」は、従来のスーパードクター像の相対化を試みた作品として共に位置付けられるでしょう。
スーパードクター像の解体と更新
責任を延々と自問し続ける脳外科医
医学的リアリティとフィクションの水準の相克というブラック・ジャックが抱えていた問題に対し、それぞれの水準を作品内で切り分けることによって、後続作品は独自のスーパードクターを生み出してきました。医師による「監修」によってスーパードクターの技巧の精度や限界が規定されつつも、それを超越するための設定やキャラクター性といったフィクションの領域の描写が、万能の医師という超人性に確かな存在感を与えるという構造です。90 年代以降そうしたスーパードクターの超人性の相対化も試みられるようになってきました。
とはいえ、高度に専門化された医療を題材とする近年の医療マンガは、その内実の正確性を追求すればするほど、スーパードクターという存在を否定せざるを得ないという葛藤を抱えています。そうした新たな課題に挑んだのが「医龍-Team Medical Dragon -」(以下「医龍」)です。 「医龍」は2002 年から『ビッグコミックスペリオール』で連載され、坂口憲二主演で4度ドラマ化されるなど、2000 年代を代表する医療マンガです。作画に乃木坂太郎、原案に医療ジャーナリストとして活躍していた永井明という布陣で制作され、2004 年に永井が死去して以降は医療監修という形で吉沼美恵がクレジットされるようになりました。
大学病院で助教授を務める女医の加藤は、次期教授選に向けた実績づくりのため、僻へき地で爛ただれた生活を送る心臓外科医朝田龍太郎の元を訪ねます。紛争地域で活動し伝説と呼ばれた医療チーム「医龍」を率いていた不世出のスーパードクター朝田を、自身のバチスタ手術論文執筆のための執刀医としてスカウトすることを目もくろ論んでのことでした。
紆うよ余曲折の末、新たなバチスタ手術のためのチームを結成した朝田と加藤は、治療困難な症例を朝田の神業的な手腕で切り抜けてゆく。大学内の権力闘争の縮図である「教授選」と手術の成否が生死に直結する「心臓手術」という、医療テーマのど真ん中を物語の主軸とする王道作品ですが、意外にもここまでストレートな両テーマを共に採用した作品は「医龍」以前にはほとんど前例がありません。
敵味方共にその手腕を認めるスーパードクターである朝田ですが、命に関わる心臓疾患や傷病を抱えた患者に対しても、決してスタンドプレーに走ることはありません。第1助手、第2助手、オペ看、麻酔科医といった外科医を中心とする医療チームによる連係プレーが困難な症例を回復させるというプロセスが幾度も反復され、個人としてのスーパードクターの役割は極めて限定的なものとして描かれています。
また、朝田の手腕をもってしても患者を救うことができない、朝田の技巧に他の医師が追随できず結果として患者を死なせてしまうという、スーパードクターの限界についてかなり自覚的に描かれたエピソードも存在します。「医龍」は、超人としてのスーパードクターという幻想に「MONSTER」以上にシリアスに向き合いながら、その限界を医療チームの協力によって乗り超えていくという、現代の医療を取り巻く状況に即した新たなスーパードクター像の提示に成功したマンガといえるでしょう。
スーパードクターを超えて
『月刊保団連』2013 年1月号の特集「物語の中の医師たち」における夏目房之介の論考3)では、医療マンガを「医者マンガ、医療マンガ」と言い換える箇所が見られます。2010 年頃までの総括という形で書かれたこの論考が示すように、かつて医療マンガが主人公として描いてきたのは多くが男性医師であり、女性が描かれる場合は看護師としてというのが相場でした(もちろん、例外的な作品も存在します)。こ
れは、医師以外の医療従事者への注目が低かったという時代背景や、医師という職業をテーマとする物語のバリエーションに未開拓の領域がまだまだ存在したというのも要因と考えられます。
しかし、2010 年頃を境として医療マンガが扱うテーマや職業は急速に多様化し、他方で、「医龍」以降スーパードクターものは後景化します。その理由として、次の3点が考えられます。
①「患者中心」概念の浸透
1970 年代にエリオット・フリードソンが指摘した医師-患者間の権力関係は「医療パターナリズム」と呼ばれ、専門職としての医師の社会的支配力をフリードソンは明らかにしている。それに対応するべく考案されたのが「インフォームド・コンセント」であり、日本でも1997 年には医療法によって実施が義務付けられた。このように医師-患者間の権力関係を是正しようという流れの中で「患者中心の医療」という考え方が浸透し始めている。
エビデンスのみに頼るのではなく、個としての患者を全人的に捉え解決を目指すナラティブベースドメディスンやその方法論としてのグラフィック・メディスンも「患者中心の医療」という考え方を出発点としている。こうした医療の現場における患者の存在感の高まりは、医療マンガにおいても「闘病記」「闘病エッセイ」という患者が語り手となる作品の増加という形で影響力を及ぼしている。
②チーム医療の推進
「患者中心の医療」という考え方自体は、ヒポクラテスの誓いやジュネーブ宣言においても明文化されているが、その具体的な方法論が整備されてきたのはごく最近のことである。そうした流れの一つに2009 年に厚生労働省が発足した「チーム医療の推進に関する検討会」も位置付けられるだろう。同会の報告書においては、質の高い医療の実現や患者のニーズに応える必要性に言及しつつも、高度化・複雑化に伴う医療現場の疲弊についても触れており、その解決策として看護師やその他医療従事者の役割を拡大4)させる「チーム医療」の推進が提案され実施されるようになった。
報告書には薬剤師や放射線技師といった個別の職業への言及もあり、これらの職業をテーマとした「アンサングシンデレラ 病院薬剤師 葵みどり」や「ラジエーションハウス」といった専門性の高い医療従事者を主人公とするマンガが2010 年以降急増する背景には、政府の医療従事者の役割の見直しという方針が影響を与えていると考えられる。
③フィクション要素の捉え直し
現実世界を舞台に医療行為や医療従事者をマンガで描く上で、その描写や情報の正確性にまつわる問題はどこまでも付きまとう。多くのマンガは専門家による「監修」によって問題解決を図っているが、近年は別のアプローチを取るマンガも増加しつつある。
それは先に取り上げた「JIN -仁-」のように、タイムワープなどによって現実世界ではない架空の舞台を設定する方法である。2023 年アニメ化もされた「AI の遺電子」は人間型のロボット・ヒューマノイドを治療する医師を主人公に、近未来を舞台とした作品である。ヒューマノイドならではの「記憶の複製」や「人格のコピー」といった問題を扱う同作は、BJ がコンピュータを治療するエピソード「U-18 は知っていた」をSF 的に捉え直したかのような意欲作である。
おわりに
駆け足ではありましたが、医療マンガにおけるスーパードクター像の変遷とその後の作品群を概観してきました。マンガにおけるスーパードクターの祖、BJ はそのキャラクター性に大きな課題を残すこととなりました。その課題と向き合い、フィクションとしての「スーパー」と、リアリティが求められる「ドクター」を「スーパードクター」として成立させてきたマンガの面白さが少しでもお伝えできれば幸いです。
注
- 1) アイケ・エクスナ「日本現代マンガの百年前の起源:輸入・翻訳から国産へ」(http://mstudies.org/2022/08/16/858)などに詳しい。2023 年11 月18 日最終確認。
- 2) これ以前にも、医師を主人公とするマンガとしてちばてつや「ハチのす大将」(『週刊少年マガジン』連載、1963 年)などがあるがいずれも短命に終わっている。
- 3) 「医療マンガというジャンルと『ブラック・ジャック』」『月刊保団連』2013 年1月号、p.17-22、全国保険医団体連合会。
- 4) ただし、2023 年8月にはナースプラクティショナーの国家資格化について、政府は結論を先送りするなど課題は多い。
初出:『月刊保団連』(全国保険医団体連合会、2024 年1 月号)