今、医療現場におけるコミュニケーションツールとしてのマンガの活用に注目が集められています。日本でグラフィック・メディスンの臨床応用を実践されている福井さんが描く「患者さんを笑わせるマンガ」とはどのようなものでしょうか。
「下手くそ」なマンガに患者は何を感じるのか?
―医師主導を転換させる「遊び」―
福井 謙(モミの木クリニック院長)
ふくい・けん 福島県郡山市出身。2004 年順天堂大学卒業。救急、総合内科、地域医療の研修を経て現在に至る。
家庭医療専門医・指導医、在宅医療専門医・指導医、郡山医師会副会長。
診察の際、医師が一方的に長々と話をして、患者さんは置き去りにされてしまう、そんな経験はないでしょうか? しかし、医師が説明をするときにマンガを描いて見せることで、「遊び」や「余裕」が生まれ、患者さんの反応を引き出すことができます。また、言葉だけの説明ではわかりにくいこと、感覚的に受け入れがたいことであっても、マンガを利用することで、ひと目で、すんなりと理解できることもあります。多職種連携の場や診察室でマンガを活用している実践例を通して感じたことなどをご紹介します。
みなさんは図1のマンガ(イラスト?)を見てどう思われましたか? これは多職種向けの勉強会で「マルチモビディティ(多疾患併存)」について講義をした時のもので、自分でパソコン内にある描画ツールを使って作成しました。マルチモビディティ患者は受診する専門科の数や薬の多さだけにとどまらず、介護サービスなども含め相当な負担がかかっていることを視覚的に表現してみました。
それにしても下手ですよね……。読者の方はこんなものを人前で披露して恥ずかしくないのかとお思いでしょう。しかし、これがなんというか、今は楽しくて、マンガを描いているときはとても集中できますし、なんとなくモデルとなる人の特徴をとらえて描けたりするとうれしくなります。講義の際も観衆の絵に対する反応が気になって仕方がありません(最近は残念ながらオンライン講義が多く、反応がわかりません)。しかし、それ以上にそういった発表の形式でやる方が固い内容の発表よりも私にとってははるかにやりやすく、むしろこっちの方が観衆の理解がより進むのではないかと思っています(観衆が誰かにもよるかもしれませんが……)。
ちなみに、まさにどうでも良いと言われそうですが、私のマンガは下手くそなことの他に、何に気を付けて描いているかを自分で振り返ってみました。一つは実際に起こったことを例に描くことだと思います。これは症例提示と同じような考えでそうしていると思いますが、実際に私が参加していた場面でないと、その情景や表情などをマンガにできないからです(そもそも私は詳しく情景をマンガに描く技術は持ち合わせていませんが、私なりにちょっとした工夫で表現しているつもりです)。
他に気を付けていることはウケを取ることです。観衆がちょっとニヤッと笑ってくれるぐらいのものが好きです。そのための工夫として知り合いが多い会では、そこに参加する誰かに似せて描くことや、やや現実的でシニカルなタッチのマンガにしています(『Dr. コトー診療所』よりもう少し現実的で、『ちびまる子ちゃん』の野口さんぐらいのシニカルさかなと。漫☆画太郎の作品にまでは至りません)。
「先生の絵、最高」「下手だけどなんか似てる」「わかりやすい」──。お世辞が大半だと思われますが、一部の観衆にお褒めの言葉をいただくこともあり、今のところこのスタイルで私は気分よくやらせてもらっています。そのほかによくマンガ(イラスト?)を用いるのは患者さんに病状説明をするときです。
話の長い医師、置き去りの患者
帯状疱疹、糖尿病などある程度定型的な病状説明をする際は、どうしても私の話す時間が多くなってしまいます。その分話すボリュームが増えてしまうと、患者さんの理解や記憶が追い付かないと思うことがあり、今はできるだけ文字や絵も加えて説明しています。ちょうど良いタイミングだと思ったときに、ノートに描きながら説明して、描いた内容をストックしています。製薬会社などが持ってくる患者説明用のパンフレットを使うこともありますが、自分で描いたものだとなんとなく説明する側もしっくりきたりします。
図2は自律神経の問題について説明するときのものですが、やはり下手ですよね……。字も殴り書きでひどいものです。話は少しそれますが、お医者さんって絵が上手い人が多いですよね。よくあるのは外科医が手術の術式を患者さんに説明する際の絵ですが、スラスラと写実的な絵を描きます。あれはもともとの才能なのか、解剖を見て真面目にスケッチをしていたのか私にはわかりませんが、とにかく私のマンガ(?)はそれに比べてはるかに下手です。
しかしそんな下手な絵付きの説明でもやってよかったと思うときは、その絵を描いている最中に患者さんが「下手ですね」とか言って笑ってくれる時でしょうか。
患者さんに病状説明をしている時の私の表情を想像すると、まさに自分の得意分野を説明しているわけですから、相手が口をはさむ余地も与えずに夢中になってペラペラと話しているのでしょう。「ここまでは理解いただけましたか?」など相手の理解を測りながら進めているつもりでも、『呪術廻戦』でいう「領域展開」と同じで、ほぼこちらの領域で完結しているような気がします。そんな医師主導の時間帯に、マンガはより理解を促すだけではなく、少し遊び、余裕をつくってくれる気がします。なんか面白い先生だと患者さんは少しリラックスして聞けるかもしれませんし、説明した後で質問できそうと思うかもしれません。
しかし、それでも通り一遍の病状説明には限界を感じる時も多いです。たとえイラストを用いても、説明後に患者さんの表情がポカンとしていることや、私の説明が終わるや否や急に別の話をし出したりして「今の話を本当に聞いていたのかな?」と思うことも多いです。これは患者さんのヘルスリテラシーが低いという単純な話だけではなく、個別性の高い患者さんの相談ごとに対して毎回同じ病状説明の仕方だと、そこには患者さんの欲しい情報が入っていない場合もあるでしょうし、そもそも糖尿病の説明などは患者さんにとって聞きたくもない情報なので耳をふさいでいるのかもしれません。
お腹の中で「けい太君」が暴れる
最後に、より個別性の高いマンガとして診察時に患者さんとの対話の中で描いた絵をご紹介します(図3)。これはある精神科に通う患者さんが通院している最中に描いたイラストです。診療中に患者さんが見ている前で描いて、ウケたのを確認した後に、写真を撮って電子カルテに貼り付けました。
その患者さんは精神科から多くの向精神薬を処方されているのですが、ある時から腹痛に悩むようになり私に相談がありました。私は内科的な側面を担当することになり、上部内視鏡など検査を一通り行い、ストレスによる胃酸過多を考え酸分泌抑制薬や機能性ディスペプシアとしても薬を処方するなどしましたが、ご想像の通り症状の回復はありませんでした。経過や精神科医から身体症状症と説明を受けたことを踏まえても、その腹痛は診断や処方薬でドラマチックに改善するものではなく、共にあり続けるものだと言うほかない状況になりました。
通常だと、そこで精神的なものだから精神科医に相談してくださいと言いたいところですが、精神科医からも腹痛について薬を処方されていて、おそらく精神科医から見ても厳しい状況なのだろうというのが読み取れました。そうなると私は頭の中ではあまり効果が期待できないと思っていても、処方薬の変更を繰り返すことになり、とうとう手詰まりの状況になっていきました(家庭医療を行っている者として、家族や仕事の話など背景因子のアプローチも試みましたが上手くいきませんでした)。
ただ幸いに、その患者さんは腹痛の相談以前から、風邪症状や皮膚の相談などで面識があり関係がとても良好だったために、腹痛の相談についても医師患者間の関係が崩れるような差し迫る緊迫感はありませんでした。そしてある日の診察中にこの患者さんと腹痛について対話をしていたところ、急に天啓が降りたかのように感じて、この絵を描くことになったのです。
患者さんの胃袋のあたりにウツボ(名は「けい太君」としました)がいるということにしたんです。ウツボのけい太君はご飯を食べると暴れ出すので腹痛の原因になっている、ストロカインが嫌いなので、ストロカインを飲むとそのあとしばらく静かにしている、いなくなるといいよねと。
こんなのハッキリ言って精神科医に怒られそうですよね。第一、その絵を見た患者さんも怒り出す可能性があったかもしれません。しかし、そこはそれまでの対話の蓄積があります。私は直感的に、腹痛の原因が内科的な側面で説明できないからといって、それを精神的なものに押し付けたくない(スティグマを増幅させたくない)し、自分ではない他の何かのせいにして欲しい(自責の念よりは外的な要因にした方がまだ健全)と思ったような気がします。とはいっても、やはりその場しのぎだったかもしれません。
ところがです。その絵を見て患者さんと僕は涙を流すくらい笑いました。なんかいい感じにフィットしたんです。患者さんも唐突でびっくりだったと思いますが、とにかく大笑い。私も我ながらできた絵のアイデアや名前が面白すぎて大笑いで、しばらく2人で笑っていました。あくまでこんな対話ができたのは、患者さん側が私のキャラクターを理解し容認してくれたおかげだと思います。
その後、患者さんと腹痛について話すときは、「最近はけい太君静かです」とか「この前はすっごくけい太君が暴れてひどかったです」という具合で、話があまりシリアスになりません。それから2人でどういうときにけい太君は暴れて、どういうときに静かでいるのかという探索が始まりました。そしていつの間にか腹痛の原因探しは終わっていました。
問題を他のものにすり替えて、あったものをなかったようにする。これは不誠実な対応だと言われそうですが、私はむしろこの“ レトリック” については、コミュニケーションにおける一つの技術で、日常的によくあるにもかかわらず、多くの医師が苦手にしているような気がします。もちろん、自分の利益を優先して患者さんの不利益になるようなことを無理に押し付けていないかについては十分注意しなければなりません。
それでは、医療の現場でのレトリックを使わない説明の例を考えてみましょう。「今患者さんは、心肺停止状態であり、心マッサージや人工呼吸器管理をしない場合、そのまま亡くなってしまう可能性がありますがどうしますか?」と医師に言われた場合、患者家族はどう感じるでしょうか。たとえ、その患者さんが末期がん状態で、当初本人も家族も自然な形で最期を迎えようと決めていたとしても、急な決断を迫られた場合、決める責任の重大さを感じて「やれるだけのことはやってください」と答えてしまうのではないでしょうか。
しかし、もしその時に医師から「急ではありますが、今がちょうどその時を迎えようとしています。このまま安らかに看取ってあげませんか?」と言われた場合、そのレトリックは果たして患者、家族にとって不誠実な言い方と言えるでしょうか。
少し話を大きくしてしまいました。ちなみにこの患者さんは先日けい太君の話になったときにこう言いました。「先生、けい太君って、医学的には機能性ディスペプシアってことで良かったですか?」。当たり前ですが、患者さんは本当に胃袋にウツボが住んでいるとは思っていません。内心では自分の内面がつくり出した腹痛だともわかっているようです。しかし、患者さんは今でもたまに別のけい太君のイラストを描いてくれとねだってきます。けい太君の絵が癒しになっている、宝物だと言ってくれます。そう言われると、私もまたけい太君を描いてしまうわけです。単純に絵を見て2人で大笑いできた、それが患者の回復を促す意味での癒しだっただけかもしれません。わからないものです。
落書きで笑いを取った少年時代
私がイラストを描き続けているのは、少年時代からイラストやマンガを描いて周囲からウケを取って喜んでいたという感覚が残っているからだと思います。もちろん、その時も絵は下手で、ノートの端に落書きを書いていた程度のものです。しかし、医師になってたまたま患者さんのイラストを描いたときに患者さんのご家族や看護師さんたちがとても喜んでくれたことで、過去のウケを取って喜んでいた時の感覚が蘇ったのでしょうか、それ以来なにか機会があるたびにイラストを描くようになったと記憶しています。
しかし、もちろん趣味というか、好きでやっている範囲でしたが、日本グラフィック・メディスン協会と出会い、「これが患者さんの役に立つものかもしれない」と思うようになってからは、以前より熱心に描くことが増えたのかもしれません。また、米国の女性作家25 人によるアンソロジー『MENOPAUSE』収録の更年期症候群のマンガを患者さんに見せながら対話することもありますし、中川学さんの『くも慢。』など、患者さんの視点から描かれたマンガを研修医に読ませることもあり、普段の臨床の中でマンガと関わる機会も増えました。
今後についてですが、とにかく私は下手の横好きですので、将来の野望などはありません。ただ普段の診療の中で関わるマンガの世界が、患者さん、または私自身にとってどのような意味を持つのか、これから少しずつ言葉にできていければ、なお面白いと思っています。そのためにも、これからさらにたくさんマンガを読んで、日本グラフィック・メディスン協会との関わりも続けさせてもらい、マンガ(イラスト?)を描き続けようと思います。
初出:『月刊保団連』(全国保険医団体連合会、2024 年1 月号)
「下手くそ」なイラストに隠された医師の確かな観察眼
「下手くそ」を自称する福井さんのイラストがどうして患者さんに伝わり力を発揮するのか。改めて、この患者さん(ちなみに、おばあさんだ)の絵を詳しく見てみよう。
目は白内障が進んでいる様子だ。真夏なのにアーガイル柄のセーターを着て、診察室で医師を前にして「誰だい?」と確認している。軽度の認知障害や老人性難聴の疑いが示唆さ
れる。
腕に黒いシミが描かれている。これはワーファリン投与の皮下出血かもしれない。心房細動の既往歴が示される。
杖を持つ姿は骨粗鬆症もあって腰痛も推測させるし、左手指の変形した第1 関節はへバーデン結節の症状を、曲がった両膝からは変形性膝関節症が想起される。
実はこのイラストには医師の視点でなければ描けない特徴がちりばめられているのだ。福井さんの描く絵が患者さんを和ませる理由の根底には、福井さんが医師としての患者を深く知ろうとする確かな観察眼がある。(落合 隆志)