中垣 恒太郎
「異」から世界を捉える眼差し
医学、病、障がい、ケア(提供する側および提供される側)をめぐる包括的な概念としてのグラフィック・メディスンを媒介にすることで、「老(介護)」、「障がい」などの医療の周辺領域をもつなぎ合わせることができる。病気や障がいを「治す」ことを目指す医療やリハビリテーションからこぼれ落ちてしまいかねない領域をも、「障・老・病・異」の観点から包括しようとする「生存学」の概念もまた、グラフィック・メディスンの姿勢と通底するものだ。そして、「生存学」では性的なアイデンティティの面で人と異なることを「異」として捉えている。この領域は、本書の「医療マンガ100選」の試みにおいても充分に扱うことができなかったが、これからますます注目される領域となるであろう。
セクシュアル・マイノリティなどの繊細さを要する領域をどのように捉えることができるであろうか。新井祥『30歳で「性別が、ない!」と判明した俺がアラフィフになってわかったこと。』(ぶんか社、2019年)は、セクシュアル・マイノリティの問題を積極的に扱ってきた筆者によるエッセイマンガである。30歳まで「女性」として暮らしてきたが、インターセックス(ターナー症候群)と診断されて以降、縮胸手術を受けるなど体の男性化治療を進めてきた体験を踏まえ、男女の身体をめぐる問題や、セクシュアル・アイデンティティのあり方の多様性を提起する。
加えて、エイジズムの観点に焦点が当てられている。幼少期の「女の子の記憶」からも遠ざかっており、しかし、少年や青年期の記憶も経験もない。これから年齢を重ねていく姿も想像できない。作中で参照されているように、「FtM」(Female to Male の略)と呼ばれる「女性という性を割り当てられたものの男性として生きる」ことを望むあり方もあれば、中性的な志向を持つ場合もあり、セクシュアル・マイノリティといってもそのあり方もまさに千差万別である。50代を目前にすることで、あらためて自身の人生のあり方を探る中での戸惑いや感慨が、ギャグマンガを基盤にしながらも提起されている課題は深みがあるものだ。
また、いわゆる「性同一性障害(GID)」、「性転換手術」(性別適合手術、SRS)に関する領域を医療においてどのように扱うかは、なおも模索と進展の段階にある。
その中で、平沢ゆうな『僕が私になるために』(講談社、2016年)は、性別に対する違和感を抱いて以降、性同一性障害の「治療」に臨み、日本でのホルモン療法を経てタイで手術を受け、身体的にも法律的にも女性に性別を転換するに至るまでを綴った自伝エッセイマンガであり、ルポルタージュマンガである。「性転換手術」の様子を料理のイメージで詳細に表現する手法に特色があり、「普通」であることから外れてしまっている戸惑い、性別を転換することに対する覚悟、異国で手術を受ける不安や孤独などが丁寧に描かれている。
トランスジェンダーにまつわる講演活動も展開している小西真冬『生まれる性別をまちがえた!』(KADOKAWA、2017年)、『性転換から知る保健体育~元男が男女の違いについて語る件』(KADOKAWA、2018年)もまた同様に、子どもの頃から抱えていた正体不明の違和感から、「性同一性障害」としてホルモン治療を受けることになり、タイで「性転換手術」を受けるに至る自伝マンガであり、ルポルタージュマンガである。しかしながら、一口に「性同一性障害」「性転換手術」といっても、違和感を抱えてきた生育背景や、ジェンダー、セクシュアリティをめぐるアイデンティティのあり方、気持ちの揺れ動きのあり方も多様である。そんな当たり前のことにあらためて気づかせてくれる。ユーモアを交えながらも、おそらくは同じように違和感を抱えている読者に向けて、それぞれの局面に対する具体的な情報、その時々の気持ち、手術後の新しい生活の様子が細かく綴られている。
LGBTQに対する関心が高まっているが、それぞれのアイデンティティのあり方、個人を取り巻く環境もさまざまである。医療マンガとの交点もこれからさらに注目されることになるだろう。国際グラフィック・メディスン学会ですでに高い評価を受けている作品として、永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』の英語版(『My Lesbian Experience with Loneliness 』)を挙げることができる(Seven Seas Entertainment、2017年)。セクシュアル・マイノリティとしての孤独や違和感、精神疾患を自伝マンガで表現する描き手として注目されており、『現実逃避してたらボロボロになった話』の英語版(『My Alcoholic Escape from Reality 』)の刊行も2021年に予定されている。セクシュアル・マイノリティという「異」の観点から世界を捉えることでそうでない人々にとっての日常の風景の見え方も違うものになってくるはずだ。「異」とそれ以外を隔てるさまざまな境界についての示唆が、分断の時代において他者への理解や共感をもたらす一助となることだろう。