中垣 恒太郎
海外における「医療マンガ」の動向に目を向けてみよう。もともと本書の母体となる日本グラフィック・メディスン協会は、英語圏で2007年にスタートしたグラフィック・メディスン学会の流れを受けて発足した経緯がある。その中で、アメリカのペンシルヴァニア大学出版局が重要な役割をはたしており、「グラフィック・メディスン」叢書として、『グラフィック・メディスン・マニフェスト マンガで医療が変わる』(北大路書房から翻訳刊行)などの研究書をはじめとする作品を精力的に刊行している。日本語翻訳版は2021年初頭現在まだないが、英語圏でのグラフィック・メディスンの発展史に関しては『グラフィック・メディスン・マニフェスト マンガで医療が変わる』にて参照することができる。ほか、英語圏での潮流を探りたいならば、ペンシルヴァニア大学出版局の「グラフィック・メディスン」叢書のラインナップを概観することで様子をつかむことができるだろう。
では、グラフィック・メディスンの観点から基礎文献となる作品にどのようなものがあるのだろうか。グラフィック・メディスン学会の中心メンバーの一人である、マシュー・ノウ(ハーバード大学医学大学院図書館司書)および健康科学分野の専門図書館司書であるアリス・ジャガーズによって、「グラフィック・メディスン基本図書リスト」が2021年2月に発表された(“Essential Graphic Medicine: An Annotated Bibliography”を検索)。研究書である『グラフィック・メディスン・マニフェスト マンガで医療が変わる』を含めて30の書籍が紹介されている。
リストに収録されている作品としては、本書でもとりあげたデイビッド・スモール『スティッチ―あるアーティストの傷の記憶』、ブライアン・フィース『母のがん』、そしてスペインの作家パコ・ロカの『皺』が挙がっている。
また本邦未訳だが、グラフィック・メディスン学会の創設者の一人、イアン・ウィリアムズによる『バッド・ドクター―医師イワン・ジェイムズの混乱した人生と時代』(2014年)、姉妹編の物語として、泌尿器科に勤める女性医師の物語『レディ・ドクター』(2019年)、同じく創設者の一人、HIV/エイズ専門病棟に勤務していたMK・サーウィックによる回想録『テイキング・ターンズ HIV/エイズケア371病棟の物語』(2017年、サウザンブックス社より2021年刊行予定)などがある。
その他、双極性障害を抱える作者によるエッセイマンガとしての、エレン・フォーニー『マーブルズ―躁と鬱、ミケランジェロと私』(2012年)、聴覚障害を抱える女の子が補聴器をすることにより世界の認識が変わっていく物語、セシ・ベル『エル・デフォ』(2014年)、あるいは、ピーター・ダンラップショール『私の退行―パーキンソン氏病と共に生きる人生の旅』(2015年)、ダナ・ウォラト『アルツハイマー―鏡から見える世界』(2016年)などの闘病エッセイマンガが選出され、日本の「医療マンガ」とテーマの類似性を探ることができる。
このリストで興味深いのは、医療マンガとの接点を持ちにくい作品も散見されることだ。たとえば、レイナ・テルゲマイヤー『スマイル』(2010年)は、児童書とヤングアダルトものをつなぐジュニア向けマンガの新潮流の代表作である。小学校六年生の女の子が前歯を怪我してしまってから人前でうまく笑うことができなくなってしまう日常を綴った自伝的マンガであり、歯の治療場面も描きこまれている。あるいは、マイア・コバべ『ジェンダー・クイア―ある回想録』(2019年)は、自分のジェンダー・アイデンティティに違和感を抱えている主人公による回想録である。
このリストが作成された背景として、グラフィック・メディスンの観点から捉えることができる作品を共有しようとする気運の高まりがある。選ばれている作品の多くは、グラフィック・メモワールと呼ばれる回想録であり、自伝マンガに相当するものだ。日本の医療マンガの幅の広さと比べると狭い領域に限定され、英語圏に偏っている点は否めない。実際にこのリストには日本のマンガ作品は選出されていないが、英語版がある作品に関しては学会のウェブページで紹介や言及が積極的になされている。その中でも、永田カビは学会の年次大会でもひときわ注目されている存在である。『寂しすぎてレズ風俗に行きましたレポ』以降、精神疾患を描くユニークな自伝マンガとして、次作『現実逃避してたらボロボロになった話』の評判も高い。
「グラフィック・メディスン叢書」を擁するペンシルヴァニア大学出版局はさらに2021年度から新しい叢書「グラフィック・ムンディ」をスタートさせた。「ムンディ」はラテン語で「世界の」を意味する言葉であり、「世界を共に描こう」というキャッチフレーズのもと、「健康・人権・政治・環境・科学とテクノロジー」を主題とし、フィクションとノンフィクションの境界を越え、言語文化圏の枠組みも越えたグラフィック・ノベルの紹介を推進する方針が打ち出されている。コロナウイルス禍をめぐるアンソロジーや、南米エクアドルにおける石油開発と環境破壊をめぐる回想録、摂食障害をめぐる物語、あるいは、事故による四肢切断に対する義肢装具(義足など)の歴史など、これまで以上に幅広いラインナップとなっている。
本書でレビューとしてとりあげた「海外マンガ編」は、英語圏の「グラフィック・メディスン基本図書リスト」よりも、対象も、内容も、手法も、その多彩さが際立つものだ。マンガ文化が成熟している日本の出版市場では、海外マンガの翻訳紹介は簡単なことではないのだが、英語圏、ヨーロッパ文化圏、アジア圏など、世界のさまざまなマンガ文化の紹介がなされている。
医療や健康、生存にまつわる広義の「医療マンガ」を捉える際に、日本のマンガ文化を海外の枠組みで捉える視点、また、海外のマンガ文化を日本のマンガ文化と比較考察する視点は今後ますます求められるものであろう。