中垣 恒太郎
医療マンガにおいて特に目立った動きを示しているのが「エッセイマンガ」の領域である。当事者である患者の視点、家族の視点からの「闘病エッセイマンガ」は、症例、作者が置かれている状況、作者のスタイルによってもまさに多種多様に発展している。体験記に根差したこの領域はプロのマンガ家が疾病を経て体験記を著す場合もあれば、単行本としての第一作が体験記となる場合もある。書き手および読み手の裾野が広い点に特色があり、マンガを熱心に読む層のみならず一般向け読者層に開かれており、マンガ文化の受容層の観点から言えば特別な位置にある。
マンガ家が病を抱える体験を描く闘病エッセイマンガは、マンガ家ならではの視点で「病」をマンガによって表現し、マンガ家ならではの気づきにも特色がある。マンガという視覚文化を通して「病」をどのように表現することができるか。また、「病」とともに生きることによって日常の生活や世界の見え方がどのように変容していくものか。マンガ家ならではの視点による「病」の捉え方、気づき、気持ちの伝え方に特色がある闘病エッセイマンガは、同じ病や症状を抱える読者に共感をもたらすだけでなく、あらゆる読者に健康や人生について多くのことを考えさせてくれる。
「病」とともに生きる~作品の中で生き続ける
場合によっては残念ながら絶筆となってしまう作品もある。くりた陸『乳がんに襲われ余命宣告を受けた少女漫画家の家族への手記 陽だまりの家』(秋田書店、2017年)は、少女マンガを中心に長年にわたって活躍してきた著者の遺作となる単行本であり、「陽だまりの家」(『月刊フォアミセス』、2011年)、「娘とともに・・・」(『月刊フォアミセス』、2017年)の中編2作品が収録されている。がんの再発転移が発覚して以降も最期まで執筆を続けながら、病状を公表し生原稿などの資料を読者にオークションを通して販売する身辺整理にも着手していた。「陽だまりの家」、「娘とともに・・・」は2002年に病気が発覚してから15年におよぶ闘病、その後の再発に至る「病とともに生きた」記録と、娘の誕生から大学卒業までの成長をめぐる家族の足跡とが重ね合わされている。死を意識しながら制作されたであろう作品であり、病に対する不安や恐怖が色濃い影を投げかけながらも、家族に対する愛情、日常の生活に対する愛おしさが力強く描かれている。
『月刊少年ガンガン』などの媒体で主としてギャグマンガを発表していた、火村正紀による『入院ノート』(電子書籍版のみ、2016年)は、卵巣がんが見つかって以降、闘病生活を綴った記録である(初出は「ガンガンONLINE」)。つらい闘病生活を送る中で、「明るいマンガを描きたい」という思いにより描き続けられた作品であったが、未完成のままの絶筆となった。大変な闘病生活の中でユーモアを持ち続け、マンガ家としての生をまっとうしようとする姿勢が胸に迫る。
「病」の境界線―更年期・不妊治療
「病」の境界線として、たとえば不妊治療や更年期をめぐる不安や戸惑いを扱うエッセイマンガも近年進展している領域である。まきりえこ『オトナ女子の謎不調、ホントに更年期?』(「よみタイ」初出、集英社、2019年)は、突然の閉経を契機に「謎不調」として、疲労感、倦怠感、関節痛、うつ症状、骨密度低下など、細々とした身体的な変調の数々と、それに伴う精神面での戸惑いなどをコミカルに綴っている。
ある章の題名に付されているように、「更年期治療は医療の進歩の狭間に置き去られ」てしまっている領域である。年齢を重ねれば誰しもが通る段階であるために、確かに作中で言及されているように、「『更年期のつらさは我慢すべき』という考え方」に直面することもよくあるのかもしれない。加えて、本人以外を取り巻く周囲の環境も大きく変化していることが多く、育児や親の介護、キャリアなどさまざまな負担が同時期に重なることもある。筆者の場合はさらに配偶者が膝蓋骨の骨肉腫手術という大病を患っており、『夫が骨肉腫になりました』(扶桑社、2015年)として、その顛末もエッセイマンガにまとめられている。
よほどのことでなければ診療にかからずにすませてしまうこともあるのだろうし、病院通い自体がストレスになることすらある。病名がすぐには特定されないこともあるだろう。筆者の場合は十年越しの「謎不調」の要因として、「シェーグレン症候群」という症例診断に行きついている。「シェーグレン症候群」とは膠原病の一種で、ストレスなどが理由となり免疫が暴走する自己免疫疾患であるそうだが、この作品もコミカルに描かれているものの、「もうれつに死にたくなる」状況についても描かれている。
症例の診断が得られることによって、「おおげさな患者」と見られたり、「詐病」として扱われたりするのではないかという不安から解放され安堵するというのは皮肉な話ではあるが、多くの患者にとって症例の診断が得られないことの不安の大きさを物語るものでもある。
医療をめぐるエッセイマンガは、作家性が強いそれぞれに個性的な闘病体験記から、闘病の過程における「気持ち」の揺れ動きを丹念に記録したもの、取材に基づいたいわば疑似エッセイマンガ的趣向によるもの、あるいはドキュメンタリーやルポルタージュであることを前面に押し出したものに至るまで、そのスタイルや方法論のあり方も多岐にわたっている。同じ症例の診断がなされても個々人の身体や精神の状況によって病状や快復のあり方が異なるように、書き手の数だけ医療をめぐるエッセイマンガの可能性も開かれており、ますます注目が高まる領域であろう。